白花天女 其の一 (2006.9.20)
鬱蒼とした森の麓。
少し、開けた草原の傍に横たわる湖。
その湖の輪郭をなぞるかのように咲き誇る白い花が咲き誇る、広い草原。
くるぶしまで隠れる生い茂った草。
静寂がむしろ恐怖そのもののように、唯一、月明かりだけが頼りの・・・そんな夜。
もう限界とばかりに緋色の衣を、時には肌蹴け、それでもなお、必死に走る・・・。
「待てよ!」
どこから、耳に入るのか、闇夜にこだまする声。
低く、にごった声。それさえも恐怖そのものでしかなく、
二つの影は、ただひたすらに、ただひたすらに、走る。走る。走る・・・。
「お前の乱れた顔を見せてくれ・・・!」
その言葉を発する黒い影。逃げ惑う女らしき影。
やがて、月明かりに照らされ、その姿がはっきりと浮かび上がってくる。
前を走っていた影の上半身は白衣。
そこから覗く、恐れのせいか、華奢な腕はひどく血の気の引いた白い。
後ろから追う声の主らしき野獣の、しかし、力強さというよりは、
むしろ骨にようやく皮をかぶせただけの
骸骨のような醜い手に走りを止められ、
いく手を阻まれ、夜露に湿った草の上に押し付けられる・・・。
(誰だ!?お前は?! その手を離せ!)
自分は、まるで草にしがみ付く虫のような視点で事の顛末を見ている。
そして、声にならない声をあげる。だが、その光景に目を見張るばかりで、一向に距離が縮まらない。
・・・動くことさせままならない。
骸骨のような、しかし、月明かりが煌々としているせいか、顔の輪郭さえおぼつかない。
いつしか、得体の知れない“それ”は無体にも、追いついた紅白の細い体の上に跨り、やがて・・・
(・・・やめろ!)
その言葉が、いきなり、上空に視界を移したかのように真上から、一部始終を捉える。
湖の畔。その境界は唯一、水面を照らす月明かりのみ。白い花に埋め尽くされた草原の一点を為す黒い塊。
その、草原の中に蠢く紅白の女、そして淫猥な動きを見せる黒い影だけは、小さいながらにもはっきりと捉えることができる。
いつしか己自身は、そのすべてが見渡せるほどの上空から、尾曽まし全貌を卑しくも見つめるだけだった。
・・・いや、そこから動けなかった。
(・・・やめろ!離れろ!)
声にならない声に、気づいたかどうか・・・。いや、気づかない・・・。
しばらくすると、黒い骸骨のような物体は、さも満足げにゆっくりと立ち上がる。
足元に横たわる紅白。むき出しの胸元からは、まるで、素手で掻き回したかのようなどす黒い血溜り。
(あれは・・・!?あの女は・・・!?)
「・・・・・・・・」
「・・・しゃ!」
「・・・・・う!」
「犬夜叉!」
「・・・・・ょう!」
「っきゃ!」
目がかっと開いたかと思うと、突然身を起こし、鉄砕牙を右手に構えた。
と同時に眉間にしわを寄せ、うなされている犬夜叉を心配して覗き込んでいたかごめが、
いきなり飛び起きた犬夜叉に、逆に驚き、身を引いた瞬間、後ろにひっくり返ってしまった。
「・・・たたた・・・・。」
かごめは思い切り、しりもちをついてしまった。「・・・た〜・・・」と腰を左手でさするも、
すぐに起き上がり、飛び起きた犬夜叉の傍に駆け寄った。
「犬夜叉、あんた随分うなされていたけど・・・。へんな夢でも見たの?」
そっと、白い小さな手が犬夜叉の寝汗で濡れた額にそっと差し伸べるが、
犬夜叉は不意に顔を背け、「・・・ほぉ」とため息をつくように目線を下に向けた。
「・・・ねぇ」
差し伸べた手が額に優しく触れた。「・・・夢・・・か」と、額にかかる手に気にも留めず呟いた。
楓の村まで後わずかの山間。妖怪退治を頼まれ、いつもどおりの活躍をこなし、帰路に着く道中。
さして、距離はないものの、夜の森は危険極まりないということで、安全そうな場所に床を構え、野宿となった犬夜叉たち一行。
まだ、夜明けまで時間はある。犬夜叉とかごめの寝ていた場所から、火をはさんで、
反対側の木の陰に寝ている弥勒と珊瑚は、犬夜叉のうなされた声には気づいていないのか、
起きてくる気配はない。
だが、すぐ傍の寝袋に寝ていたかごめは、犬夜叉のうめき声に気づき、
そっと七宝を寝袋に寝せ、様子を伺いにきた。
寝袋の中で、寝息を立てている七宝。木の向こう側には弥勒と珊瑚、そして雲母。
まだ、薄暗い夜半。暖をとっていた筈の火はすでにくすぶり落ちていた。
「ひどくうなされていたけど、大丈夫?」
顔を背けられても、なお、じっと心配そうに覗き込むかごめ。
犬夜叉はゆっくりと顔をかごめの視線に向けた。が、目はふせたままだった。
「・・・なんでもねぇ」
(・・・目、そらしてる・・・)
じっと、顔を見つめていたかごめだったが、それ以上追求することはなかった。・・・できなかった。
目が覚めるときに、思わず口に出した言葉が胸に、ずきん・・・と突き刺さり、次の言葉をかけるのを阻んだのだ。
「・・・少し、散歩してくる。・・・その、・・・すまなかった・・・」
と、一言残し、心配するかごめをよそに、森の奥、夜の闇の中へと消えていった。
まるで、何かを追いかけるのか、はたまた、逃げるようにひらりと跳躍しながら闇夜に消え入った・・・。
一人、かごめを残して・・・。
(あのとき、呼んでいたのは・・・・)
かごめは、胸元で両手をぎゅっと硬く絞り、闇に消えていく犬夜叉の後姿をじっと見つめた・・・。
「なんじゃ?朝起きたら犬夜叉が見あたらなんじゃが。」
七宝はかごめを見上げながら、旅支度を始めている一行に声を上げた。
「うん。夕べ、散歩に行くっていって、それっきり帰ってこないの。」
リュックに寝袋を詰め込みながら、かごめが言った。
「犬夜叉のことです。すぐ我々のところに追いつくでしょう。楓様の村までは後少しですし。」
弥勒はかごめの様子を伺いながら、錫杖を手に取り、隅衣の埃を払った。
「そうだよ。犬夜叉だったら、妖怪に出くわしたところで、多分やっつけられるだろうし。」
飛来骨をひょいと担ぐと、かごめの肩にポンと手を置く。
弥勒、珊瑚とも、まるで見守るかのようにかごめを笑顔で見つめた。
夕べ誰一人起きなかった、気づかなかった一連の出来事がまるで理解しているかのようにかごめにやさしく微笑んでいるのだ。
気を使わせちゃうよね・・・、とチクンと感じる胸の痛みを押し殺し、
「うん、もう出発しよう。楓ばあちゃんも待っていることだろうし。」と笑顔で返した。
(大丈夫・・・よね。犬夜叉・・・)
一瞬、犬夜叉の消え入った森の方へ目をやったが、今更仕方がない・・・、
と少し先を歩く弥勒たちに遅れるまいと足早にみんなのもとに向かった。
犬夜叉は、一人、闇の中を飛び跳ねるように駆けていた。
――――なんなんでぇ!胸糞悪い!
独り言のようにつぶやきながら、木々を飛び、どんどん奥へと進んでいく。
どれくらい、森を駆けたであろうか。すでに仲間たちの匂いさえわからないくらい、奥へと突き進んでいた。
迷子になるようなこともない距離ではあったが、少し奥に着過ぎたかと思ったのか、ふと立ち止まった。
「夢・・・だったんだよな・・・。」
立ち止まった場所で、顔を下ろし、自分の足元を見つめ、自分に言い聞かすように言葉を吐いた。
夢から覚めたときのことを思い出す。
心配そうに覗き込んでいたかごめの眼差し。
額にそっと手をかけてくれたとき、気づいてはいたものの、
夢のことばかりが頭の中でぐるぐると駆け巡り、
手を添えてくれたかごめの顔を満足に見ることさえままならなかった自分。
白い小さな手が触れたときの、少し冷たくもやさしい温もりが
今ごろになって、そこだけ、ぽっと熱を持ったかのように感じ始めた。
犬夜叉は、右手を自分の額に添え、あの時感じた温もりをもう一度思い返したとき、
初めて自分が夢から覚め、冷静になったような気がした。
(戻るか・・・)
犬夜叉は、もと着た道を戻ろうと顔を上げた、そのとき、木々の向こうにうっすらと放つ青白い光を見つけた。
(あれは、・・・死魂虫!)
そう思った瞬間、光の下に吸い込まれるように、青白く光る方向に駆け出していた・・・。
弥勒たち一行は、既に山をいくつか越え、やがて楓の住む村全体が見渡せる丘の上まで来ていた。
「楓ばあちゃんちが見えてきたよ〜」と、から元気をみせるかごめ。
「やっと落ち着けるね。かごめちゃん。」
いつもと変わらない振る舞いをしてくれる珊瑚の気遣いが妙に心に沁みる。
かごめは、みんなに気を使わせてはいけないと、元気に振舞った。
「ようし、この丘、駆け下りちゃおうかな?」
「かごめ様、いくらなんでも危ないですよ?」
弥勒は、言葉とは裏腹に笑いながら答えた。
「大丈夫だって!早く楓ばあちゃんに会いたいし!」
そういうと、かごめは急斜面を走り始めた。
急斜面がかごめの走る勢いに加速をつける。
転んだら、どこまでも転がっていくような斜面に気を配りながら、茶色いローファーで走っていく。
――――気持ちいい!でも、犬夜叉が見たら怒るだろうなぁ。無茶しやがって!なんていいそう。
ふっとした瞬間、未だ戻らない犬夜叉の顔をに思い描いた。
森で散歩に行って来るといって、目も合わせずに背中を向けた犬夜叉。
待っているともなんとも言えずに見送ってしまった自分。夢から覚めたときに口にした言葉。
まだ。心の中で胸がチクンと疼いている。
あれから、半日が経つというのに未だ戻らない犬夜叉が気掛かりでならない。
が、しかし、誰一人行く先を詮索するものはいなかった。
そう、誰も何も言わないのだ。
なんだ、かんだと言っても、決してかごめの傍から離れることのない犬夜叉が唯一、一人足を向かわせてしまうところ。
桔梗。
これだけの時間、戻らないのは、おそらく桔梗と会っているに違いない。
ここにいる仲間みんなが行き場所を詮索しないのは、それがわかっているからに他ならない。
そして、それを口に出したが最後、かごめが傷ついてしまう。
わかっていても、言葉を出せない理由がそこにあることは誰の目を見ても明らかだった。
また、みんながそれをわかっているからこそ、自分に気を使っていることに気づいてしまう自分。
そこには誰一人悪者はいない・・・。あるのは、溢れるくらいに募るお互いの友愛。
――――気持ちいい!
天中に届きそうな太陽に顔を向け、 息切らせつつも笑顔で走った。
――――下を見たままじゃ、落ち込みがなおも強くなりそう。もしかしたら涙がこぼれちゃうかも。
――――だから、上を向いていたほうがいい!明るいお日様を見ているほうが元気が出そう!
そう、自分に言い聞かせながら、楓の住む村まで走っていった。
楓の住む村の傍に流れる川まで、一足先にたどり着いたかごめは、後ろを振り返り、
みんなが自分に追いつくのを待とうと近くにある大きな石の上に腰掛けた。
「久しぶりのかけっこだったなぁ」と肩で息をきらせながら、そっと川を覗き込む。
「かごめちゃーん!」
と後から、かごめの後を追うように小走りにかけてきた珊瑚が大きく手を振った。
「はや!もう追いついちゃったのぉ!珊瑚ちゃん!」
かごめは、腰掛けた石から飛び降り、珊瑚のもとに駆け寄ろうとしたとき、岩陰から何かが動いたように感じた。
「ん?誰かいるの?」
そっと様子を伺おうと石の影に身を屈めると、「あ!」と思わず声を上げた。
「どうかしたの?かごめちゃん?」
少し、後ろの方から珊瑚が何事かと急いでかごめの傍に走った。
かごめは、飛び込むように石の裏手に回り、「あの、もし?大丈夫?」と必死に声を上げた・・・。
岩影に一人、男が蹲っていたのだった・・・。
川の傍で倒れていた男・・・。
やがて、弥勒も駆けつけ、様子を伺うべくとっさに胸元に耳をあて、心の臓が動いていることを確認する。
「少し弱ってはいますが、・・・生きています。」
弥勒はそのまま、どこを怪我しているのかと、少し濡れた着物を穿いてみると、そこには痛々しい生傷が目に留まった。
その傷は、肩から胸元にかけ、刀で切りつけられたらしく血が線を描くように斜めについていた。
しかし、この傷はたった今、つけられたものではない。
むしろ、どこかで手当てをしてもらったのか、薬草らしきものがついていたが、張り付いていた後が見受けられた。
だが、せっかくの薬草も、あちこち動き回ったせいなのか、傷口から剥がれ落ち、衣服の中にたごまっている。
様子から見て、どこかで切り付けられ、誰かに手当てをしてもらった後、そのまま流離い歩き続け、この地までたどり着いた・・・。
水がほしかったのか、村を見て安堵したのか、それはわからないが、ここまできたところで意識を失った・・・。
おそらく、そんなところかと弥勒は思った。
「このままじゃ、ほんとに死んじゃう!助けなきゃ!」
かごめは意識のない男の首の下に細腕を差し込み、頭を抱えた。
男は頭をたれたまま、目が覚める気配はない。
「そうですね。このままにしては置けません。取りあえず、連れて行きましょう。」
弥勒は、自分の腕に抱きかかえこむと男の顔をじっと見つめた。
丹精な顔立ちは自分とさして年の変わらないほどであろう。
(野盗か何かに追われていたのか?)
直感的に感じた。
弥勒が行き倒れの男の体を抱き起こしたそのとき、男は口を歪め、ふっと薄目を空けた―。
「うう・・・」
「あ、目を開けた・・・!」かごめが男の顔を見やる。
男は、空ろながら、自分の顔を覗き込んだかごめに気づくと、
はっとしたかのような顔でかごめの顔を見つめ、息を呑みこんだと思いきや、。
「・・・き、桔梗!」
とっさにと叫び、一瞬、力ない腕でかごめの顔を掴むように腕を伸ばしてきた!
「!・・・な、何?」
かごめはとっさに身を引いた。
その一瞬の出来事に、男の周りを取り囲んだ一同は、空気が固まったように動きを止めた。
伸ばした手を避けるように思わず身を引いたかごめだったが、
ぱたっと落ちた腕に恐る恐る近づいた・・・。
(桔梗・・・って・・・)
なぜ、桔梗を知っているのか、その答えを聞き出す間もないまま、男は再び目を閉じた。
また、意識を失ったのだ。
珊瑚も弥勒も、もちろんかごめも一瞬呆然としてしまったが、なんせ意識のない怪我人をこのままにはしておけない。
「・・・楓様のところに連れて行きましょう。」
弥勒が口火を切ると、「ああ、そうだね」と珊瑚は雲母に弥勒と男を連れて飛ぶように指示した・・・。
「なんじゃ?桔梗を知っておるのか?」七宝が首を傾げ、珊瑚の肩にひょいと乗った。
「なんで、だろうね・・・」
弥勒たちが飛んでいく姿をじっと見つめるかごめの背中に目を向けた。
(どういう、ことかしら?)
「・・・かごめちゃん、大丈夫?」
珊瑚は、そっとかごめに尋ねた。その声はひどく遠慮がちだった。
「・・・あ、うん。ごめん、珊瑚ちゃん。ぼうっとしちゃった・・・。私たちも早く弥勒様たちの後を追いましょう!」
と意を決したように、珊瑚を見つめ返した。
(とにかく、手当てしてあげなくちゃ・・・)
一方、犬夜叉は、桔梗の姿を探すべく、死魂虫を駆けていた・・・。
気がつけば、もう東の空は薄らいでいた・・・。
(桔梗・・・!)
しばらくすると、死魂虫は、向こうの森の影にすう・・・と吸い込まれるかのように消えていった。
(あそこか?!)
死魂虫の消えていったほうへと足を向けると、まっしぐらに木々を抜ける。
やがて、薄く光る死魂虫に囲まれるかのように、ひっそりと音もなく、
緋色の袴をなびかせて佇む女が犬夜叉に背を向けるようにして、そこにいた・・・。
「・・・犬夜叉・・・。なぜ、ここに?」
後ろに現れたのが、既に犬夜叉だったことがわかるかのように、ゆっくりと振り返った・・・。
「・・・いや・・・、死魂虫がいたのが、見えたんだ・・・。・・・だから・・・、来たんだ。」
犬夜叉は、ゆっくりと桔梗の方に歩み寄った。
犬夜叉は、さっきの夢が、夢だったんだと確かめたい気持ちに駆られたのか、
桔梗の肩に手を伸ばし、ゆっくりと自分の胸元に引き寄せた・・・。
「・・・犬夜叉、お前らしくもないな。」
桔梗は、犬夜叉の胸元に引き寄せられても、瞬きひとつすることもなく、その表情は変わらない。
「心配しちゃ、いけねぇ・・・か?」
桔梗の耳元で、囁く。
「死んでいる身を案じるのもよいが・・・・」
よいが・・・、?
その言葉の先を口にしない桔梗。
肩を引き寄せる手を止め、懐かしい、
かつて想い合っていた女の体を胸に抱えたまま動かない犬夜叉。
犬夜叉もわかってはいた。夢ではない証拠を探しに桔梗のもとまで追いかけてきたということ――――。
かごめの心配そうな顔が時としてよぎるも、今は桔梗のことを考えるだけで精一杯。
やがて、犬夜叉は「無事なら、・・・いい。」と、胸元に寄せた桔梗の体に己の手を回す事もなく、
ぬくもりのない、さめた死人の体をそっと離した。
「ここで、何していたんだ?」
桔梗と向き合いながら、薄暗い空を見上げた。
雲がところどころに地平線の下にある太陽の光を受け始めたのか、はっきりと姿を見せ始めている。
「薬草を摘みに来ていたところだ。」
「薬草?」
「ああ、切らしてしまっては困るだろう。」
桔梗の足元を見ると、木の根元に薬草らしき香り立つ葉が青々と茂っていた。
が、もう摘み終わったのか、桔梗は身を屈めることもなく、ひっそりと佇む。
夢で見た、追いかけられていた女。
顔は暗くてわからなかったが、あの服装はおそらく桔梗・・・。
そんな根拠だけで、ここまでやってきた犬夜叉。
しかし、そんな心配も今頃になって、ふと心に思いついた。
(なにやってんだ?俺は・・・?)
たかが、夢。
それだけで、かごめさえも後に仲間たちの下を離れ、
桔梗を追いかけてきた自分に少し、情けなさを感じ始めた。
「用がないなら、もうよいだろう・・・。私は行く。」
「・・・ああ。」
桔梗は、指先を天に差し出すと、周りを取り巻いていた死魂虫が桔梗を巻き込むかのように近づき、
透けて消えそうな体をすうっと浮かせると、やがて未明の空の向こうへと消えていった・・・。
犬夜叉はただ天を見上げ、死魂虫とともに消え行く桔梗を見送った・・・。
(・・・たかが、夢、だったんだよな・・・)
ふと体に残る感触を思い出す・・・。
かごめの暖かかった小さな手のひら。
桔梗を引き寄せたときの冷たい感触。
どちらも愛しいはずのものなのに、何が違うのか・・・
似ているようで、まったく違う二人。
まったく違うはずなのに、同じ魂をもつ二人。
犬夜叉は、未明の空を見上げ、心の中にある二つの女の顔を並べ、
未だ払拭できない不安は何なのか思い返した。
(・・・あの顔は、本当はどっちだったんだろう・・・?あの顔は・・・)
心によぎる不安は一体なんなのか?
たかが、夢であれど、あまりにも生々しく残酷な余韻。
その汚濁のような渦はいつまでも犬夜叉の胸に残っていた・・・。
「どんな具合じゃ?」
「楓様、すみません。突然のことで。」
弥勒は、楓の家に着くなり、裏手にある納屋を貸してほしいと頼み、
床を用意してもらい、そこに男を横たえた。
時折、うめき声をうっすらとするものの目が覚める気配はない。
やがて、楓の家に到着するや、
かごめはリュックの中から、現代から持ってきた薬箱を開けると、
手早く患部を確認し、薬を塗り始めた。
「本当はお薬も飲めればいいんだけど・・・」
楓が男の傍で懸命に看病するかごめを見下ろした。
「この村のものではないな。」
「どっからか、流れ着いたんだろうね・・・」
珊瑚も弥勒と同じ見解だった。
かごめは、何も言わず、額の手ぬぐいをそっとぬぐい、
「傷自体は、思ったより深くないけど、熱が引かないの・・・」
と、手ぬぐいをぎゅっと絞ると、もう一度額の上にのせた。
「あたし、桶の水、替えてくるよ。」
と珊瑚は桶を手に取り、足早に外に出た。
弥勒は、どうしたものかと、じっと男を見据えると、
やがて、楓の方に振り返り、そっと「楓様、少しいいですか?」
と楓を納屋の外に連れ出した。
「楓様、実は、あの男・・・」
ふんふんと楓は弥勒が耳元で囁く言葉に少し、驚いた。
「なぜ、姉さまを・・・」
楓も首をかしげ、考え込んだ。
「しかし、あの男の意識が戻らぬうちは、何も聞きようにありませんが・・・」
と付け加えた。
「かごめ様の心痛、察しいたします・・・。」
「ふう・・・む、かごめは大丈夫なのか?」
「はぁ、まぁ。いつものことではありますが、かごめ様の国の薬を使い、今はただ熱が引くのを待っておられます。」
弥勒は、かごめたちのいる納屋の入り口に目をやった。
一瞬の出来事に驚きはあったものの、怪我人に対してどうこうできるものではない。
男を床に寝かせると、一生懸命看病していたかごめが、
犬夜叉のいない楓の村で必死になっている姿がむしろ痛々しく感じる。
(あのバカは、どこをほっつきあるっているのか・・・。もうすぐ日が落ちるというのに・・・)
「珊瑚!」
水桶に新しい水を汲み終え、かごめたちのいる納屋に向かおうとした矢先、犬夜叉が駆け寄ってきた。
「随分、遅かったじゃないか!犬夜叉。」
少し、嫌味気味に犬夜叉に答える珊瑚。
犬夜叉は、さして気にも留めず、「かごめは?」と珊瑚の回りを見渡した。
「かごめちゃんなら、楓様の家の納屋にいるよ!」と言葉が終わらないうちに既に珊瑚を後にしていた。
「まったく、なんなのさ!」
珊瑚は、桶を片手に腰に手を当て、呆れ顔で、犬夜叉の背を見送った。
「かごめ、いるのか?」
「しっ!」
納屋に入ると、床の脇に正座したかごめがいきなり入ってきた犬夜叉に牽制した。
「・・・なんでぇ。・・・(怒っているのか?)」と思いきや、布団に見知らぬ男が寝ていた。
人目見て具合が悪いのはわかったが、どうしてかごめが看病しているのか。
「なんだよ、そいつぁ。」
「声が大きいって!」きっと睨み付けるかごめ。
ここでは、話にならないと犬夜叉はかごめの腕をつかみ、「ちょっと来い!」と小声で言い放つと外に連れ出そうとした。
が、しかし、かごめは立ち上がったものの、
「病人一人にしておけないでしょ!」
と、また同じところに正座した。
(やっぱ、怒ってるのか?)
犬夜叉は思わず手を引き、かごめの後姿を見つめた。
「・・・遅くなって、その・・・。すまなかった・・・」
かごめは、犬夜叉を見ようともせず、無言のまま男の額の手ぬぐいを返した。
「・・・お、怒ってんのか?」しゅんとした犬夜叉。でも、かごめは答えない。
「やっぱ、怒ってんじゃねえか・・・」
両手を緋の水干に隠すように中で組み、かごめの脇にどしっと胡坐をかいたまま、
少しむくれたようにかごめから顔を背けた。
「・・・あんたねぇ、この状況で何いってんのよ!」
小声でかごめがようやく口を開いた。
でも、犬夜叉の顔は見ようともしない。
「あのまま、戻ってこない犬夜叉のこと、どれだけ心配したと思っているのよ!」
「な、・・・俺だってなぁ!」
と思わず、片足を前に出し、かごめに頭ごなしに(しかし小声で)怒鳴った。
が、もちろんかごめはそれに動じない。
(・・・なんか、いつも様子が違う?)
いつもの怒り方と少し様子が違うことに感じた瞬間、珊瑚が先ほどの水桶を持って納屋に入ってきた。
「病人の寝ている傍で何さわいでんのさ!」
珊瑚は、男の傍らで看病するかごめをそのままに、新しい水桶を差し出すと、犬夜叉を外に連れ出した。
そこには弥勒もいた。
「犬夜叉、・・・桔梗様と会っていたのか?」
いきなり、切り出した弥勒に犬夜叉は何も言えず、黙ったままうつむく。
「まぁ、よい。いつものことだ。(わかりやすいやつだな。)ところで、あの男のことだが・・・」
「なんで、かごめが看病しているんだよ。ただの怪我人じゃねえか!」
けっとすねたように、相変わらず腕を組んだまま弥勒に顔をやった。
「あの男、かごめちゃんを見て、桔梗!って呼んだんだよ」
珊瑚が口をはさむ。
「はぁ?!」
さすがの犬夜叉も驚いた。
つい、先ほど、とはいっても朝方までだが、
一緒にいた桔梗の名を見ず知らずの男がその名を呼んだことに驚いたのだ。
「なんで、桔梗だなんて・・・。そんなこと一言も言っていなかったぞ」
もちろん、そんなことを聞きに桔梗のもとに行ったわけでもなかったのだが、やはり驚きは隠せない。
三人はかごめのいる納屋の方に目をやった。
(一体、何者なんだ?)
今朝見た不安はいつしか、正体のわからない男への不安へとすり替わっていった・・・。