乱  ―5―             (2007.5.24)

 

 

 

 

 

 

 

 

かごめは部屋に戻ると、戦国時代に戻るためにと用意していた

梓山の弓を手に、ドアノブに手をかけた。

 

ふと毀れる溜息。

 

いつもなら、犬夜叉が迎えに来ていてもおかしくなかった。

 

ましてや、自分が具合悪くなったのを

身を切るような思いでここまで連れ帰ってきてくれた彼のこと。

 

 

今日は来ない・・・・

 

 

躊躇う手。

 

ドアノブを握り締めたまま、かごめは俯いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「かごめ・・・。」

 

 

そのときだった。

 

 

「・・・・え?」

 

 

思いがけぬ気配。

振り返る。

 

カーテンが揺れる向こう。

もう沈み姿も見えなくなっていた夕日の前に

緋色の衣が佇んでいた。

 

 

「犬夜叉・・・。」

 

「かごめ。」

 

 

対照的な位置に二人は立ちすくみ、見つめあった。

 

たかが数日の時間と距離。

その間にそれぞれの心に湧いた負の陰り。

 

 

かごめは手に取った弓を握り締め、

金の瞳、真っ直ぐに見つめる眼差しに僅かに目を細め、

小さな声で呟いた。

 

 

「来てくれたんだ・・・。」

 

「ああ。」

 

「・・・・・。」

 

「具合はもう、・・・いいのか?」

 

「うん。大したことなかったし、もう大丈夫。」

 

「そうか・・・。」

 

 

一瞬の間は確かにあった。

 

だが、最初に足を伸ばしたのは犬夜叉だった。

 

 

「かごめ!」

 

「!」

 

 

広い大きな胸板、水干の袖の中に包まれていく自分。

 

その腕は小さなかごめの体をすっぽりと覆った。

 

 

「かごめ・・・。」

 

「あ、・・・犬夜叉・・・。」

 

 

やはり彼には適わない。

 

彼の直向な愛情に戸惑う理由が見つからない。

 

かごめは微かに頬を高揚させ、その腕の中、

胸の内にと顔を鎮めようと体を傾きかけたときだった。

 

 

「・・・・かごめ?」

 

「な、何?」

 

 

勢いよく引き剥がすかのように肩を掴み、

かごめの目線まで身を屈ませ、鋭い視線で見やる犬夜叉。

 

さっきとはまるで正反対の勢いをかごめは感じた。

 

 

「お前、あいつに会ってたのか?」

 

「・・・あ。」

 

 

恭平に掴まれた部分に僅かに残る男の匂いに

犬夜叉の嗅覚は見逃すはずはなかった。

 

 

「何故あいつと会った?どうしてお前の体に匂いがついてる?!」

 

「犬夜叉!落ち着いて!」

 

「かごめ!」

 

 

犬夜叉は肩から漂う『奴』の匂いに激しく動揺すると共に

それを許したかも知れないかごめに俄かに膨れ上がる情炎を燃え滾らせ始めた。

 

 

「今すぐ脱げ。」

 

「え?」

 

「そんな匂いのついた服なんか着てんじゃねぇ!」

 

「きゃ・・・!」

 

 

犬夜叉は声を荒げ叫ぶと、

かごめの腕を掴み、勢いよく制服を捲り上げ、

そして部屋の隅へと投げ捨てた。

 

手に持っていた梓山の弓が音を立て、床へと落ちる。

 

舞い落ちた紅いスカーフ。

 

腕を引き込まれた勢いに、かごめはベッドにと倒れこんだ。

 

が、すぐさま犬夜叉はかごめの両手を掴みあげると

上半身を起こすように自分に引き寄せ、さらにと睨みつけた。

 

胸元につけられた白い下着、その真下では

激しく鼓動がなっていただろう。

 

スカートが捲りあがり、艶かしい太ももが露になるも、

かごめは黙ったまま、高まる緊張を押し殺し、

犬夜叉を見つめた。

 

 

「どうして奴と会わなきゃいけない?」

 

「・・・犬夜叉。」

 

「何故、会う必要がある?」

 

「・・・・。」

 

「お前に触れた。どういうつもりだ!」

 

「犬夜叉!」

 

「ぶった切る!」

 

「違うのよ!」

 

 

かごめの声が部屋に響いた。

 

 

「彼に会ったのは、ちゃんとしたかったからなのよ・・・。」

 

「何をだ?」

 

「私には彼の気持に応えられないと、・・・ちゃんと言ってあげなきゃ・・・。」

 

「・・・・。」

 

「あんたのこともそうよ。乱暴な我儘な奴だと思われているのは嫌なのよ。」

 

「・・・・・。」

 

 

犬夜叉は、淡々と言葉を続ける声に耳を傾けるも

掴んだ手を広げつつ、ゆっくりとベッドへと倒した。

 

乳房を覆う白い布から、隠れ見える紅い跡は自分がつけた愛した刻印。

 

よく見ると、それはいくつも散りばめられ、

激しかった行為の名残をそこにと留めていた。

 

 

 

誰にも触れさせたくない、

誰にも見せたくない、

 

存在そのもの。

 

 

過ぎる記憶。

 

かごめを押し倒し、その体の上に覆いかぶさっていた

忌々しい光景。

 

彼だけではない。

もしかして、それはまた他の誰かによって

なされるかもしれない未来の不安。

 

 

「・・・許せねぇ。」

 

「犬夜叉・・・。」

 

「殺す!」

 

「犬夜叉!」

 

 

犬夜叉はベッドにかごめを残し、

元来た窓へと飛び上がった。

 

 

「犬夜叉!」

 

「・・・・!」

 

 

かごめはあられもない姿のまま、犬夜叉の背に飛びつき、

胴へと手を回し、ぐっと固くしがみ付いた。

 

 

「やめて!犬夜叉!」

 

「かごめ!」

 

「そんなことしちゃだめ!」

 

「お前、あいつに何されたかわかってんのか!」

 

「でも、駄目だったら!」

 

「かごめ!」

 

 

犬夜叉は振り返り、自分にしがみ付いているかごめと向き合いなおし、

華奢な二の腕を握り締めた。

 

 

「言ってわかるような奴かよ!」

 

「犬夜叉!」

 

「言ってわかるような奴なのかよ!」

 

「じゃ、あんたは言ったらわかるの?!」

 

「何?」

 

「あんたはわかる・・・の?」

 

 

 

 

見上げた瞳から溢れる涙。

 

だが、真っ直ぐに自分を見つめる視線に犬夜叉は

掴んでいた手から力を抜いた。

 

 

「何が・・・だよ?」

 

「あんたはわかってくれるの?」

 

 

大きな雫が幾つも毀れ、絨毯にと染みこんで行く。

 

 

 

 

そうだ

 

 

かごめは泣いていた

 

 

楓の小屋で泣いていた理由も聞いてはいない

 

 

 

何を?

 

何が?

 

 

何がお前を泣かせてるんだ?

 

 

 

 

 

 

「おい、かごめ・・・・。」

 

「言えば、あんたはわかってくれるって言うの?」

 

「俺が何だって・・・・。」

 

「行かないで!」

 

「・・・・・!」

 

 

 

かごめは激しく泣きじゃくりながらも

犬夜叉へと再びしがみ付くように抱きついた。

 

回した手に力を込め、顔を埋め涙を流す。

 

 

 

 

 

 

行かないで?

 

どこにだ?

 

 

俺がどこに行くっていうんだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「かごめ?お前何言ってんだ?」

 

「犬夜叉!」

 

 

小さな手が水干を握り締めていた。

 

 

今まで何度となく抱き合ってきてはいたが、

これほどまでの力を犬夜叉は感じたことがない。

 

 

「俺が・・・どこに行くってんだ・・・よ?」

 

「・・・・・。」

 

「お前を置いてどこに行くってんだよ!」

 

 

必死にしがみ付くかごめを抱き返すように

その体を覆った。

 

 

かごめが泣く理由と泣いた理由と、

そして、今の言葉と。

 

 

 

俺がお前を置いて?

 

どこに?

 

 

 

「かごめ?お前は何を言っている?」

 

「・・・・。」

 

「俺が・・・、一体俺がどこに行くって・・・・。」

 

「あの日から、・・・・ずっと思ってた・・・・。」

 

「あの日?」

 

 

 

 

 

 

 

桔梗を見送った後、旅の途中で出くわした妖怪『花皇』。

 

 

 

 

 

 

―――――悲しかったんですね?

 

―――――この世で一番愛した女性【ひと】を失ったことが悲しかったんですね?

 

 

 

 

―――――その女性【ひと】の後を追って死にたいと思うほど

 

 

 

 

―――――悲しかったんですね?

 

 

 

 

 

 

 

 

あんたは何も言わなかった

 

ただ、目の前の妖しを倒すことだけを考えていたんだと思う

 

 

でもね

 

応えを言わなかったよね

 

 

 

桔梗の後を追って行きたい?って聞いたとき

 

あんた、何も言わなかったよね

 

 

 

 

 

桔梗を失った悲しみの深さは確かに大きいわ

 

 

だって、一番大切な人だったんだもの・・・ね

 

 

 

でも、それでも

 

 

やっぱり駄目よ

 

 

 

 

 

後を追って死にたい・・・・なんて思って欲しくない!

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・・俺が?」

 

 

大粒の涙を流し、必死に訴えるかごめ。

 

犬夜叉は両手で顔を覆い、泣き続けるかごめを

もう一度固く抱擁し、耳元で呟いた。

 

 

「俺は・・・・・。」

 

 

確かに桔梗を失った後の自分は、その痛み・悲しみは

自分一人で負いなし責【し】おなねばならないものと思っていた。

 

 

 

本当は、自分よりもかごめのほうが深く傷ついていたというのに・・・・

 

 

 

「俺がそんなこと考えているとでも思っていたのか?」

 

「・・・・・。」

 

「どうして、お前を置いて・・・・。・・・かごめ・・・!」

 

 

抱きしめた腕に力が入る。

 

 

「命に代えてでも私を守るって・・・、守り通すって言ってくれたよね?」

 

「ああ。本気でそう思っている。嘘はねぇ。」

 

「・・・嫌なのよ。嬉しいけど、でも嫌。」

 

「かごめ?」

 

 

意外な言葉に思わず抱きしめた体を引き剥がし、

潤んだ黒い瞳を見つめる。

 

その瞳に溢れる澄んだ雫が頬を伝い、

犬夜叉の手にも毀れた。

 

 

「あんたを失ってまで、奈落に打ち勝とうなんて思わない・・・。」

 

「かごめ・・・・。」

 

「あんたのいない世界なんて嫌・・・。」

 

「犬夜叉がいなくなるなんて嫌なのよ!」

 

 

零れ落ちる涙。

 

その言葉と同時に犬夜叉の顔を包むかのように

腕をかけ抱きしめるかごめの細い腕。

 

 

自分を失いたくないと泣き叫ぶかごめの強い思い。

 

 

「かごめ・・・・。」

 

「言ったじゃない?ずっと一緒にいるって・・・・!」

 

「・・・・・。」

 

「ずっと傍にいるって、言ったじゃない・・・・。」

 

「・・・俺は・・・・。」

 

 

 

そうだ

 

 

そうだったよな・・・・

 

 

お前が泣くときは、いつも俺のことを思って泣いていたんだよな

 

 

 

俺のために泣いてくれるんだったよな

 

 

 

 

どうして泣くのか・・・・

 

 

聞くまでもなかったんだ・・・・

 

 

 

 

お前は俺のためだけに、

いつも俺のためだけに泣いてくれるんだった・・・・・

 

 

 

 

―――――一緒に行こう・・・・

 

 

 

桔梗の誘【いざな】う手が見えたとき

 

あの時、思った

 

 

そこに行けばいいのか

 

 

どうしようか

 

 

 

確かに迷いはあった

 

 

そこに行けばいいのか、迷った

 

 

 

 

でも、その時、確かに俺はお前の声を聞いた

 

 

その声を聞いたとき、

思ったんだ・・・・

 

 

 

 

 

俺にはかごめがいるんだ、と・・・・・

 

 

 

 

 

 

「馬鹿言ってんじゃねぇ・・・・。」

 

「・・・・・。」

 

「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ・・・!」

 

「犬夜叉?」

 

「お前を残して俺が死ぬとでも思ってんのか!」

 

「そんなつもりで俺がお前を守るとでも思ってんのか!」

 

「犬夜叉・・・・。」

 

「俺は死なねぇ・・・。」

 

「・・・・・。」

 

「お前を残して、死にやしねぇ!」

 

 

 

 

 

 

死に急ぐためにお前を守るんじゃねぇ

 

 

桔梗の後を追いたいがために戦うわけじゃねぇ

 

 

 

俺は誓ったんだ

 

桔梗の眠る墓の前で

かごめをお前と同じような目には合わせない・・・と

 

 

同じ過ちは繰り返さない、と!

 

 

 

 

「俺がお前を守るって言ったのは・・・・。」

 

 

最後まで言葉は続かなかった。

 

続けることは出来なかった。

 

 

見つめるかごめを見ている内に、

その艶やかな唇に吸い込まれるかのように自分の唇を重ね合わせていた。

 

 

離したくない

失いたくない

 

誰にも渡せない

 

 

そんな存在を確かに感じていたい

 

間違いなく自分を思っていると

直に触れ、感じていたい・・・

 

 

そんな思いが見ているだけで沸き起こる。

 

 

 

 

 

 

楓の小屋で思わず抱いた後、

かごめは泣いていた。

 

 

この間もいつもと様子が違うとわかっていても

欲する思いをとめることができなかった。

 

 

 

かごめの心はこんなにも自分のために泣いていたのに・・・・

 

 

 

そんな悲しい思いを抱えてお前は俺に抱かれていたのか?

 

俺以上に失う怖さを抱えていたのか・・・?

 

 

「かごめ・・・・。」

 

「・・・・?」

 

「お前が欲しい・・・・。」

 

 

大きな手の平がかごめの頬を包み込む。

 

 

力抜けるかのようにかごめは自分のベッドへと腰かけ、

次に犬夜叉がするであろう行為を予測するかのように

涙で濡れた瞳をそっと閉じた。

 

長い睫毛に残る水滴が一滴の雫となって

自分の顔を包み込んでいた手の甲へと流れ落ちていく。

 

その瞼に犬夜叉はそっと口付け、それは恰も涙を拭うかのように

舌を這わせ、そのまま口にと含ませた。

 

 

 

お前は暖かい・・・

 

 

 

頬も体も涙も、

何もかもが暖かい・・・・

 

 

 

かごめの体をゆっくりと倒し、身に纏っていた着衣の全てを取り外していく。

 

生身の体に己の衣も全て取り払い重ね合わせていく。

 

 

触れる部分にお互いの鼓動が共鳴するかのように自ずと高まっていく。

 

しなやかな肉体を滑るかのように這う手に

かごめは小さくも、しかし、それは確かに応えていた。

 

 

「かごめ・・・・。」

 

「ん?」

 

「聞いてくれるか?」

 

「何・・・を?・・・・あ・・・ん・・・。」

 

「お前が・・・欲しい・・・・。」

 

「犬夜叉・・・。・・・・ああっ!」

 

「お前の体も心も・・・。」

 

「あん・・・!いや・・・!」

 

 

 

 

 

 

「お前の・・・未来も・・・・何もかも・・・!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外は既に真っ暗になっていた。

 

多分、もう夜中に近い時間であろうと思いながらも

かごめは身を起こし、

隣で意外なほどに安らかに寝息を立てている犬夜叉を見つめた。

 

 

(気持ちよく眠っている・・・)

 

 

多分、自分を実家にと連れ帰ってきてからの彼は

眠ることもせず、自分のことを考えてくれていたのだろう。

 

具合の悪くなったのは自分なのに、

それに責任を感じ、まるでここに近づくことさえ阻まれてならない思いが

彼にはあったのだろう。

 

意外なほどに優しい心。

繊細な愛情。

 

(あんたって、そういう奴なのよね・・・)

 

 

 

 

あまりにも気持ちよく眠っている彼を起こさぬようにと

そっと静かにベッドから抜け出すと、

浴室へと向かい、シャワーを浴びようと蛇口を捻った。

 

 

かごめは石鹸を泡立て体を洗いながら、何気に正面の鏡にと目をやった。

 

今朝入ったばかりではあったが、

今しがたまで重なり合っていたせいか

汗を流したいと思うのは自然なことではあるが、

でも、それでも何かが違うと感じる。

 

(そっか・・・。あの時は私落ち込んで泣いてたんだ・・・)

 

そう思うと自分の現金さにおかしさを込み上げたせいか

思わず笑みを溢す。

 

(ほんと・・・、私って単純よね・・・)

 

泡だらけの鏡の中の自分を見つめ、微笑んだ。

 

湯気で見る見るうちに曇っていく鏡に映る自分を見て微笑んだ。

 

 

「何一人で笑ってやがるんだ?」

 

「・・・・きゃっ!」

 

 

心臓が飛び出しそうなほど驚いたのも束の間。

 

泡だらけの体、つま先が床のタイルから浮く感覚。

 

 

背後に突然現れた犬夜叉は、かごめの体を持ち上げ

自分のほうへと向きなおさせた。

 

いつものように仏頂面のまま、

かごめを見据えつつも軽々と持ち上げる犬夜叉。

 

石鹸で滑るだろうと思いながらも落とされる心配など

全く感じさせない強い腕にしっかりと腰を掴まれている。

 

犬夜叉はかごめのいなくなったベッドから

すぐさま這い出してきたのか一糸纏わずここまで来たらしい。

 

生まれたての姿のまま。

男女がシャワーの流れる中、見つめあう。

 

 

「俺を置いて一人で何・・・・。・・・?」

 

「ふふ・・・。」

 

「何がおかしいんだよ?」

 

「だって・・・・。」

 

「?」

 

「泡があんたの顔に吹き飛んで・・・、ふふ・・・。」

 

「ああ、この白いのか?」

 

「あんたには匂いがきついんじゃない?」

 

「いや、嫌いじゃねぇ。」

 

 

(お前からよく感じる匂いだ・・・)

 

 

「ねぇ、下ろして?」

 

「あ?」

 

 

かわいらしいつま先がタイルの上で泳いでいる。

シャワーの湯気がまるで霞をかけた泉のように

どことなく神々しく見えるのは自分の目の錯覚だけではないかもしれない。

 

そして、ようやく目にした笑顔のかごめ。

 

心の中の澱み全てを薙ぎ払うこの笑みを絶やすことはならない。

 

少なくとも自分がかごめを思うことで

この笑顔が保てるのなら・・・。

 

そう思うことは決して気負いでも自惚れでも何でもないだろう。

 

 

「・・・ねぇ、犬夜叉?」

 

「俺から離れるな。」

 

「え?」

 

「俺の傍から・・・離れるな・・・。」

 

 

犬夜叉は湯船の縁にと腰下ろすと

かごめを抱え直し、膝の上にと乗せた。

 

 

「俺から離れるんじゃねぇ・・・。」

 

「犬夜叉・・・。」

 

 

見つめ合い、静かに唇を重ね合わせる二人。

 

 

「ふふふ・・・。」

 

「なんだよ、またそんな風に笑いやがって。」

 

「だって、すごく優しかったから・・・。・・・さっきの犬夜叉。」

 

 

万遍の笑みが犬夜叉の瞳一杯にと映る。

何にも変えがたい微笑みに犬夜叉も思わず口の端を上げ微笑み返す。

 

 

「激しいほうがよかったか?」

 

「馬鹿・・・。」

 

 

そして、かごめもまた犬夜叉の返す笑顔を見つめ、

心の奥底にあった澱【おり】を溶かし消し去る。

 

 

 

 

 

 

もし、犬夜叉が次に桔梗の墓標の前に立つことがあったとしても

今の自分なら、それも素直に受け入れられる

 

 

 

生きると言ってくれた犬夜叉の言葉を信じてる

 

 

 

 

犬夜叉

 

私ね

思うの

 

 

あんたには

 

笑っていて欲しい

 

いっぱい楽しんで欲しい

 

 

生きて・・・

 

 

ずっと傍にいるから・・・・

 

 

 

 

 

 

 

「激しいほうがよかったか?」

 

「馬鹿・・・。」

 

浴室に響き渡るシャワーの音、霞かけるような湯気の中。

 

二人は愛し合った後の余韻を暫く味わっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ!かごめたちが帰ってくるぞ!」

 

 

戦国時代。

骨食いの井戸の縁にと手をかけ、井戸の底を覗き込む七宝は

逸る心を隠せず、大声で叫んだ。

 

 

一瞬、井戸の底が光ると、そこから、ふわっと湧き出てくるかのように

人の形が姿を現す。

 

 

「なんじゃい、犬夜叉か。」

 

「なんでぇ、文句でもあんのか?」

 

「かごめはどうした?また怒らせたんじゃなかろうな?」

 

「あ?なんだよ、『また』ってのは!」

 

 

犬夜叉は背負ったリュックを放り投げると

足元で騒ぎ立てる七宝を戒めるかのように拳を振り上げる。

 

 

「犬夜叉!おすわり!」

 

「ぎゃん!」

 

 

犬夜叉に続き、井戸から出てきたかごめの第一声。

 

 

「かごめ〜!」

 

「七宝ちゃん只今。お土産持ってきたわよ。」

 

 

リュックの中には母親が用意してくれていた菓子類が詰め込まれている。

現代と戦国時代を行き来するかごめの影の立役者はきっとこの母親に違いない。

 

入院しているじいちゃんも草太も

今回の帰宅で会うことはなかったが、

心の底から自分を応援し、励ましてくれていることを痛切に感じる。

 

 

 

いつの日か、どちらかの世界を選ぶ日が来ることがあるかもしれない

漠然とした未来。

 

 

 

犬夜叉と一緒にいたいのよ・・・・

 

 

ずっとずっと・・・・

 

 

これからも・・・・

 

いつまでも・・・・

 

 

 

ママ

 

私のこの気持、応援してくれるわよね・・・?

 

 

 

「かごめ!さぁ帰ろう!」

 

「七宝ちゃん、待ってよ。」

 

 

笑顔で駆け出すかごめ。

七宝の小さな手はかごめの手をしっかりと握り締めていた。

 

 

「よかったじゃないか?」

 

「弥勒・・・・。」

 

 

井戸から走りいくかごめの後姿を愛しそうに見つめる犬夜叉の背後から

弥勒が声をかけてきた。

 

 

「仲直りできたようだな?犬夜叉。」

 

「けっ。別に喧嘩してたわけじゃねぇ。」

 

「ま、そういうことにしておきましょう。」

 

「なんだよ?随分・・・・。」

 

 

犬夜叉の文句を遮るつもりもなかったものの

弥勒はそのまま言葉を続けた。

 

 

「誰しも悩みや不安は必ずあるものだ、犬夜叉。」

 

「弥勒・・・・。」

 

「生きるとは未来に向っていることだ。」

 

「・・・・・。」

 

「見えないものに恐れを抱くことは誰しにもあるんだぞ・・・・。」

 

「けっ。わかってらい。」

 

 

 

 

そう吐き捨てるかのように鼻を鳴らす。

弥勒の抱える不安は自分が一番よく知っている。

 

珊瑚には決して言えない、広がりつつある風穴と瘴気の傷。

悟られたくない蝕まれた体。

 

音を立て崩れるかのように磨り減っていく僅かな時間を残す命。

弥勒は自分以上に不安を抱えていることであろう。

 

 

「犬夜叉―!早く荷物持ってきてよー!」

 

 

向こうのほうからかごめが大きく手を振り叫んでいる。

 

 

「おお。今行く。」

 

 

そして、思わず溢す悪態もいつもの二人に戻ったことを窺わす。

 

 

「全く人使いの荒い女だぜ。」

 

 

だが、この言葉の裏で、ふと笑みを浮かべる犬夜叉を弥勒は見逃さなかった。

 

 

「楓様や珊瑚も首を長くしてお前たちの帰りを待ってるぞ。」

 

「わかってるさ。」

 

 

そういうと、犬夜叉は楓の小屋に向かい足を一歩踏み出した。

 

その足取りはここ数日のとは全く異なり、意外なほどに軽やかだ。

 

 

 

数歩歩みを進めたところで足を止め、

振り返り、骨食いの井戸を見つめた。

 

 

かごめが出てきた井戸。

 

二人の異なる世界を繋ぐ不思議ならない井戸。

だが、お互いは何の疑問も抱くことなく、それぞれの世界を行きかう。

 

 

過ぎるのは幼い頃に聞かされた御伽噺。

 

父親を思い偲ぶ寂しげな母親の瞳。

 

 

 

かごめにそんな顔をさせてはならない。

 

 

 

犬夜叉は、体を戻すとかごめの待つ楓の小屋のほうへと再び歩き始めた。

 

 

「おーい!俺を置いていくんじゃねぇ!」

 

「遅いー!犬夜叉―!」

 

 

 

 

 

 

 

 

井戸の脇で一人佇む弥勒はその和やかな光景をしばし見つめていた。

 

 

犬夜叉・・・・

 

お前は随分変わったな

 

 

初めて会ったころは本物の妖怪になりたいと

強い妖怪になりたいと

 

ただ力を求めるだけの『半妖 犬夜叉』そのものだった・・・

 

確かにお前は強くなった

 

出会った頃とは比べ物にならないほど

本物の妖怪にも引けを取らないほど強くなった

 

 

そう思う

 

 

だが、どうだ?

 

お前はかごめ様と触れ合う度に

かごめ様といればいるほど

 

その心は誰よりも『人間』に近づいたとは思わんか?

 

 

 

妖怪は生きる苦しみを持つことはない

 

誰かを思い慕うことはない

 

 

桔梗様は四魂の玉を使ってお前を人間にしようと言ったそうだが

かごめ様はこの深い愛情でお前の心を人間にとしてくれてるぞ

 

 

 

生きる不安

 

 

それは人間誰しにも抱えているものだ

 

 

 

珊瑚が弟を思うのもまた然り・・・・

 

私の呪われし右手に黙って気遣うお前もそうだ

 

 

 

 

犬夜叉

 

 

お前は誰よりも人間らしい感情を持っていると私は思う

 

 

 

 

私はそう思う

 

 

 

 

それはかごめ様が齎した奇跡なのかも知れないが・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――その昔、国を作りたもうた夫婦【めおと】の神がいた

 

 

 

―――その神は最愛の妻を亡くし、嘆き悲しんだ

 

 

 

―――やがて、その涙から新しい神が生まれた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――夫婦【めおと】神は森の中、二つの大岩となり

 

―――久遠の愛を誓うかのように、寄り添い二つに肩を並べる

 

 

 

―――その神から生まれ出た新しい神の神体は

 

―――そのすぐ傍の古井戸にあり・・・・

 

 

 

 

 

神の名を『イザナギ』。

 

妻の名を『イザナミ』。

 

 

そして、その悲しみの涙から生まれた神の名を『ナキサワメ』という。

 

 

愛を失った途方も無い悲しみの中より生まれ出た女神。

 

 

 

愛する女を亡くした男が嘆き悲しみ、流した涙から生まれた

 

 

奇跡の化身。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

END

 

 

An author afterword

 

『乱』お楽しみいただけたでしょうか?思ったより長くなってしまいました、このお話。

最後までお付き合い頂きましてありがとうございます。

 

ここで出てきます犬夜叉の幼少時代の御伽噺に引用されたのは『日本神話』より『イザナギ』と『イザナミ』、

そして、『ナキサワメ』の3人の神様のお話。もちろん、その奉られている場所も実在します。

日本古来より口伝などにて言い伝えられたものを『古事記』に収められたそうですので、犬夜叉のお母さんも

きっと、寝物語に枕元で幼い犬夜叉に語っていたのではないか?などと想像し、今回使わせていただきました。

 

『イザナギ』と『イザナミ』はご存知の方も多いと存じますが、『ナキサワメ』はマイナーなので、ここで

少し補足します。

 

悲しみにくれた『イザナギ』が溢した涙より生まれた『ナキサワメ(泣沢女)』。

流れる涙は『水』、沢は「多(サワ)」。涙()が多く流れることを意味し、

『泉』、『井戸』など水の湧き出る場所を連想させます。

そこから、『ナキサワメ(泣沢女)』は『井戸神』として崇められ、さらには新しい命の源である

『水』の霊であることから新生児(赤子)を守護する神としても考えられているそうです。

つまり、愛と命の神様、そのものなんですね。(もっとも他にも色々ありますが)

女性を例えるとき、概ね『海』、『水』を想像するように、それを象徴したのが井戸。

実在する『ナキサワメ(泣沢女)』を奉る神社では、この『井戸』そのものをご神体としているとのことです。

 

突如、井戸から出現したかごめちゃんと犬夜叉の運命の出会い。二人はそこから始まりました。

深い愛情を注ぐかごめちゃんと一度は愛を失った犬夜叉に見事符号が合致したと感じるのは私だけでしょうか?

おかげで今回、かごめちゃんには随分泣いて頂きました。書いてて自分も痛かったお話でした。

ご感想頂ければ幸いです。

 

* はなまま *